ハンセン病と隔離政策

 最高裁は2016年4月25日、ハンセン病の患者を療養所で隔離したまま「特別法廷」として裁判を許可してきた問題について「誤った特別法廷の運用が差別を助長し」たとして、謝罪しました。

 

 ハンセン病患者は明治の隔離政策以来、全国の国立療養所に集められ、一般社会から隔絶された生活をおくっていて、最高裁の判事たちも隔離した法廷に疑問を持たなかったようです。

 ハンセン病にたいする特効薬のプロミンが発見されて以降、ハンセン病は完治する病気になりましたが、そのごも隔離政策は続き、このような偏見はなくなりませんでした。

 

 インドで発見された紀元前2000年の人骨にもハンセン病の特徴があるということから、人類は古くからこの病気とともにありました。

 日本では、「日本書紀」にその記述があるそうです。「白癩」(びゃくらい、しらはたけ)といいその症状がハンセン病の特徴をあらわしているとのことです。

 ハンセン病の原因である「らい菌」が発見されたのは1873年です。それが国際的な通説となるまでは、ベルリンおいて第1回国際癩会議が開催される1897年まであと24年をまたなければならいませんでした。

 その「らい菌」を発見したのは、ノルウェーの医師であるアルマウェル・ハンセンですが、近年ではその名前を冠して「ハンセン病」とよばれています。

 

 「らい菌」の活動温度域は33度あたりで、人の体温である36度になると活動できないそうです。そのため、外気と触れて温度の低い皮膚、眼、顔などに症状が現れやすく、いくつかの病状の型があるようですが、発疹や皮膚の破壊などがあり、顔や体のかたちが変形していく、失明するなど外見がかわっていく場合があります。

 また、つよい菌ではないため、命を奪う、感染しやすい、ということがなく、ハンセン病にかかったひとは罹患したまま生きていくことになります。

 

 このように、ハンセン病が発現するとそれまでの容姿がかわっていき、そのごの人生を送らなければならないため、人々はこの病気に対して運命論的な意味付けをしました。

 仏教でいう「業」(前世のたたり)といったり、「血すじ」(遺伝)といったりして遠ざけました。病気や障害は、おうおうにしてこういった外部との因果関係に関連付けられ、社会から差別をうけたり排除されます。

 それでも、明治時代までは温泉地での療養で他の人達と一緒になったり、神社仏閣で参拝者から喜捨(寄付)をうけたりして、一部は社会の中に溶け込んでいました。

 しかし、「らい菌」が発見されて以降、国際的にこの病気にたいする処方は、「隔離」へと流れていきます。

 

 日本では北里柴三郎たちがとなえ、財界の渋沢栄一、政界の大隈重信らが推進して1909年「癩予防法」施行されました。

 

 排除を目的にしたわけではなく、「救民」という考えから動き出したようです。

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