戦後の福祉⑥

 コロニーというのは、聚落(しゅうらく)や居住地という意味ですが、1960年代後半には障害者の収容施設のことをさすことばとして定着しました。

 障害者コロニーとは、500人もの障害者を収容する大規模な入所施設で、1960年後半から国、地方自治体などにより設立されました。

 大阪には金剛コロニーといわれる施設がありますし、各種施設を集めた弘済会などもあります。敷地の中には病院、体育館、グランドがそろっており、学校まで設置しているところもあります。

 今の感覚でいえば、500人を収容する施設は、「大きすぎる」と違和感をおぼえますが、当時は多くひとに望まれて建設されました。

 

 戦後の障害をもつひとを取り巻く状況は、多少混沌(こんとん)としたところがあり、GHQにより国家責任で救済することが明示されたものの、実態はまだまだむかしからの因習である相互扶助に頼っている状況でした。

 敗戦によって法律、制度が大きく変わりましたが、人々の常識や世間知というレベルでは戦前からの変化はさほどおおきくなかったといえます。

 戦後国家のありようと人々の意識のあいだには、大きなへだたりがあったのです。

 

 敗戦後いちはやく動き出した糸賀一雄や小林提樹などは、両者の進み方は違ったものの、ともに児童福祉法による年齢制限の問題、重度重複、重症心身障害児の行く末には重大な危機感を抱いていました。

 そこに制度の谷間、欠陥があったからです。両者とも専門の施設に必要性を感じていました。

 

 その後、昭和30年代にはいると障害者の全国組織がいくつもたちあげられ、政府に対する要望も大きくなりました。国民の相互扶助ではなく、国の責任において施策を立案していくという国と国民の合意が広く浸透していくまでに10年もしくは15年かかったといえます。

 敗戦後の国家のありようが、ようやく統一性を持ちえた時期なのでしょう。

 

 昭和30年代後半は、高度経済成長がはじまった時期でもありました。

 杉本章氏はこの時期のことを「理念なき施策の拡充」とよんでいます。つまり、10%をこえる国内総生産によって伸び続ける歳入をその時の都合で切り貼りのように社会保障の各分野に割り当てていったということです。

 コロニー構想もこういった時代背景のなかで生まれてきました。大規模施設の建設が推進されやすい状況にあったといえます。

 昭和40年に開催された「全国重症心身障害児(者)を守る会」の第2回全国大会において当時の橋本登美三郎幹事長は涙をながして重症心身障害児対策を約束しました。

 この頃には、著名人も含めコロニーに対する要望が非常に高まっていました。ある種の理想郷のように考えていたようです。

 そして、厚生省に「コロニー懇談会」が設置され、糸賀、小林両氏も委員として参加しました。

 その結果、「従来の施設体系になかった終生保護の施設を作る、様々な障害のある人たちが一緒に居住して社会生活を営むことができる生活共同体を作る」という方向で意見が集約されるに至ります。

 しかし、今はこの「コロニー」ということばをほとんど使いません。親御さんの要望と高度経済成長が合致して実現した施設でしたが、障害をもつ人の意見は一顧だにされず、重度障害者の隔離収容という負の側面しか残しませんでした。