戦後の福祉 

 戦前の社会福祉は民間の人々が担っていました。皇室関係の財団が出資をしている施設もありますが、多くは宗教団体や民間の篤志家が私財をなげうち寄付を募って困窮している人の手助けをしていました。

 民間が福祉を担う理由は、福祉は基本的に民衆の中で解決すべきで、国が関わらないという方針のためです。その背景には、明治以前から村落共同体が困窮者の救済の受け皿になっていたことがあります。しかし、昭和にはいり都市化が進むと生活困窮者の問題も大きくなっていきました。


 昭和13年に社会事業法が制定され、国から補助金が出されることになりましたが、額は十分ではなく多くの施設では自給自足に近いかたちで運営をしていたようです。

 そのため、運営がとてもむずかしく途中でやめる事業者もいました。

 その理由を次のように分析している人もいます。

「創立者の個人的人望にのみ頼りすぎて、人の組織の力の強さを忘れ或は(あるいは)後継者の養成を怠り、又単に外部よりの財的援助のみに依存して自ら独立自営の生産設備を強大することを為さなかった事に起すること大である」

 後継者を育てず、長く、確実に運営できる方法もよくかんがえず、個人的な人望のみに頼りすぎるからだということです。それだけ、どの施設も運営基盤は苦しかったのでしょう。

 逆に苦しいことが当然のすがたで、各施設は設備を充実させて各自に利益をだすようにすべきだという積極的な意見を持った人たちもいました。


 糸賀一雄が園長をしていた近江学園はそういった施設の代表でした。

 旺盛な意欲を持った彼らの事業で、そこではたらく職員は文字通り寝食をわすれて職務にはげみました。

「生活と教育を相即させたこの学園では、学課だけが教育でなく、炊事も医局も農場の開墾も薪割りも、朝夕の便所掃除も3匹の子豚の世話も、どっさりとたまる洗濯も、すべてがその一環として仕事である」といったぐあいです。

 近江学園は100名の孤児と50名の知的障害児の入所施設として事業をはじめました。その開設の理由は、障害のある子どもを私たちの仲間としてあたたかく育てあげ、正しく教育すれば、同時に社会の健全な発展を少しでも後押しすることになる、ということと障害のある子とない子が一緒にいることは社会生活をするための訓練になるからだといいます。


 近江学園は福祉施設ですが、くりかえしのべられているように「教育」のための施設だと自らを規定しています。このばあいの「教育」とは個人の成長と社会適応といえます。


 近江学園は、施設経営も職員の生活もすべてを「教育」を軸に組み立てていきました。それだけ、つよい志があったということなのでしょう。

 ただ、実際に「教育」や「支援」をおこなっていくとどうしても生活の場面もふくめて取り組んでいかなければならないという考えは必ずやってくるようにおもいます。

 教育、医療、福祉など人とかかわる仕事ではじゅうぶんな働きかけをしようとすると、どうしても全人格的な関与をめざしてしまうのです。

 ただ、実際には多くの障壁があり、現実は難しいのですが、戦後まもない時期に近江学園ではそれを実現させました。