戦後福祉の出発点③

 「わかっている」とおもっていることが特定のキーワードの出現により、よりクリアになることがある。それはクリアになる、つまり明瞭になるのはそのキーワードが、一方の端に吸い寄せることばを、他方の端にはじき出すことばを色分けし、そこに濃淡をつくり方向性を与えてしまうからだとおもう。

 戦前と戦後は全く違う体制のように感じるけど、じつは多くのことは戦前から日本の中にあったものだ。そこにGHQ(連合国総司令官総司令部)によっていくつかのキーワードが提出され、それにそって政策の立案をしていくと、戦前と一線を画す体制となったといえるのではないか。

 戦前も自由ということは知っていたし、民主的ということは知っていた。女性の参政権も議論されていたし、小作解放も検討されていた。日本はそれだけの民度をもった国だし、そうでなければ戦後あれほどすぐに新体制を作りあげることはできなかっただろうとおもう。

 福祉の分野ではGHQの「公的扶助に関する覚書」で「公私分離」「無差別平等」「国家責任」「必要充足」などのことばがあらわれた時、対応する分野の法律をこれらのことばを念頭に作りなおした。占領されていたので、たえずGHQにお伺いをたてなければならなかったけど、立法の背景は戦前の法律と敗戦後の日本の世情にあった。

 よく戦前から180度価値観が変わったといわれたり、戦後体制はアメリカの押し付けだとか云われるがはたして、それほど簡単なことなのだろうかとおもうことがある。

 戦前からずっと地続きにあったものが、方向を変えて伸びていったといえないだろうか。

 たとえば、身体障害者福祉法の場合、GHQと日本の思惑は一致していなかった。GHQは生活困窮者のなかに身体障害をふくめればよいと考えていたのだ。

 連合国軍側は、日本の武装解除を徹底したかったので、戦争に行って障害を負った人を特別扱いしようとしなかった。軍事保護院という医療から社会復帰まで傷病軍人を支援してきた機関を解体分割したし、保護が必要なら生活保護法で対処せよというのがGHQの方針で、それが「無差別平等」(戦争に行った人の優遇をしない)の意味だった。

 しかし、国内では生活が苦しいことと身体障害は同じではない。身体障害の場合は法律を作って社会復帰できる筋道をつけるべきだという意見が根強くあった。

 転機は視覚障害者の「光明寮」を見学したGHQの福祉部課長が法制定に意欲的になったからといわれている。

 日本は障害者の6割を超える元傷痍軍人の処遇を考えていた。GHQは元傷痍軍人の優遇措置は考えていなかった。その両者はすべての身体障害者の更生と保護というところに接点をみいだした。無差別平等の別の視点である。

 このように、GHQは身体障害者に対する法整備に対して否定的だったが、あとで協力的になっていく。少なくともこの法律はGHQの押し付けではなかったといえる。

 「無差別平等」は連合国軍側の提示したキーワードだったものの当の連合国も個々の政策についてはとうぜん賛成もあれば反対もあった。キーワードは敗戦国だけではなく占領軍にも方向性をあたえていた。    

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