戦後福祉の出発点②

 第二次世界大戦に敗戦してまもなく、在留邦人の帰還がはじまりました。敗戦にいたるまで、日本はその版図を広く海外にもとめていました。戦争のためだけではなく、海外に移住し、そこで生活を営んでいた人たちもたくさんいたのです。

 敗戦直後の日本は、戦争で疲弊し、産業力は大きく後退していました。それにくわえて、1945年の農業は天候不順や肥料の不足などが影響して、明治以来最悪の凶作といわれました。

 国力が低下している国土に多くの復員兵、引揚者が戻ってきて、さらに混乱に拍車がかかりました。

 戦後福祉はここからはじまったといえます。

 国民の多くが食うに食えない状況と政府の対応、GHQの方針が戦後の福祉をその後50年にわたって決定づけました。

 敗戦後の救済対象人員は800万人とも言われています。その内訳は、戦災罹災者、復員兵、引揚者、戦争未亡人、浮浪児などです。

 戦後、まず、生活保護法、児童福祉法、身体障害者福祉法など3つの福祉の法律が成立しますが、これにはその当時の社会状況が反映されていました。身体障害者福祉法は戦争で障害を負った人多くいたこと、児童福祉法は戦災孤児が社会問題となっていたこと、そして、生活保護で様々な層の最低限の生活を保証しようとしたことなどです。

 そのなかで、児童福祉法についてかんがえていきます。少し後の調査になりますが、厚生省児童局企画課のおこなった全国孤児一斉調査結果(1948211日現在)によると、孤児の総数は123,511人。その中で戦災孤児は28,247人、引揚孤児は11,351人となっています。

 

 このうち親類や里親に引き取られる子ども以外の児童は一時、浮浪児となって都市部に住みつくようになりました。同じような境遇の子どもたちが類をなすようになったのです。

 子どもたちの生活手段は、「貰い」といわれる路上で金銭や食物を乞うこと、残飯あさり、新聞売り、靴磨き、そのほかに売春や掻払い(かっぱらい)といった犯罪も多くありました。

 年長者は、裏社会とのつながりもあり、警察からは犯罪予備軍とみなされていました。

 戦後まもない浮浪児対策は、聞き取りによる実態把握と保護による施設への収容でした。 浮浪児は準犯罪集団とみなされていたこともあり、児童保護の「保護」は児童を守るというよりも治安維持のために社会から隔離収容するといった意味合いがありました。

 しかし栄養事情の悪い中、施設を嫌い脱走する子どもたちも多く、保護に躍起となる大人たちのイタチごっこをくりかえしていました。

 1946113日戦後の新憲法が交付され、その1年後、児童保護法が交付されました。

 児童保護法の理念は、「すべて国民は、児童が心身ともに健やかに生まれ、且つ、育成されるよう努めなければならない。

2 すべて児童は、ひとしくその生活を保障され、愛護されなければならない。」というものです。

 それまでの収容隔離対策とは根本的に異なり、すべての子どもの福祉の増進をはかる総合的な性格になっています。

 ここでもGHQ1946年発表した「社会救済に関する覚書」に述べられている「無差別平等」「公私分離」「救済の国家責任」などの原則が敷衍されており、軍国主義の放逐と民主国家の樹立という大きな筋から派生して児童の法律の骨格が決められました。