茶の淹れ方には、火であぶりほぐした茶葉を薬缶にいれて煮だす煮茶、茶碗に茶葉の粉をいれ、そこに湯を足す抹茶、茶葉の入った急須にお湯を入れ茶碗に移して喫する煎茶などがあります。それぞれ歴史の古い順に並んでいますが、いずれも現在においてもおこなわれている淹れ方です。
お茶は茶葉から飲み方まで大陸からやってきました。
茶の習慣を持った大陸人が来日して広めたものもありますし、日本人が留学して持ち帰ったものもあります。
ただ、輸入したものがそのままのかたちで残っているものは少なく、日本独自に練られて発展し文化として定着しました。
大陸の茶文化は東西に広がり、一方ではティーになり、他方はチャなりました。源泉は大陸の福建、広東といった海に面した地方です。福建では茶のことを「テ」と呼び、広東では「チャー」と呼んでいます。福建からはヨーロッパにむけて海経由で茶が広がり「ティー」もしくは類似の呼称がなされ、広東から陸経由で広がったところでは「チャ」に近い単語を使っています。
日本に大陸からお茶がきたのは遣唐使の頃といわれています。
空海、最澄らが持ち帰ったともいわれていますが、他の人だったかもしれません。
この時に持ち帰られた茶は、団茶あるいは餅茶といわれる、蒸した茶を石臼で挽き、団子状、煎餅状にして麹菌をつけたものでした。この団茶、餅茶をお湯に入れ喫する文化は、遣唐使廃止後衰退し、しばらくのあいだ、日本人はお茶を忘れて暮らしていました。
再び茶が興隆するのは、臨済宗の開祖、栄西が抹茶を中国から輸入してからです。
栄西は肥前の脊振山にその種を植え、そのあと京都でも茶の種を植え付けました。
この頃、抹茶は薬に分類されており、脚気や糖尿病などに効くとされていました。
栄西は布教と抹茶の普及を同時に進めました。あるいは布教を推進する動力にお茶を使ったのかもしれません。
たとえば、将軍実朝がお酒に浸って飲み過ぎた折に抹茶をすすめ、二日酔がなおったといわしめています。当時、これほどの宣伝効果はないでしょう。そして、抹茶をすすめた栄西に自然と注目が集まり、彼の主宰するする臨済宗にも好感が持たれたことでしょう。
栄西は、新しく建てた寺に茶畑を用意しました。加持祈祷とは別に僧侶が町医者のようなこともしていたのではないかとおもいます。栄西は効用を体系的に理解していおり、喫茶と健康に関する「喫茶養生記」という著をまとめました。この著作は将軍にも献上しています。
栄西の臨済宗は鎌倉、室町の武家政権と強く結びついたことから、茶は武家の中で独自の進化を遂げていきました。
栄西の頃から時代が下ると抹茶は薬効ではなく流儀として広がっていきます。
いわゆる侘び(わび)や寂び(さび)という心のありようを茶室や茶道具という形としてあらわしたのです。侘び寂びを基調におき、主が客をもてなすことが茶道とよばれるようになりました。
一度は真髄まで達したかに思われる茶道ですが、その反動は江戸時代の中ごろに現れます。