山崎と油

 就労支援センターあんずのある枚方市樟葉は平安の頃、樟葉牧とよばれていました。京阪本線ではひとつ大阪よりの駅が「牧野」と呼ばれていますが、その名にいまだ当時の名残があります。その後、石清水八幡宮の荘園になったそうですが、馬が放たれ広々としたところだったのでしょう。

 

 その樟葉牧があったころ、「土佐日記」のなかで紀貫之(きのつらゆき 平安時代の役人、編者、文人)は淀川をのぼって、樟葉の対岸の天王山のふもとの山崎に泊まったとかいています。

 土佐からの長旅で疲れたのでしょうか、京まであと少しのところを10日間も長逗留しています。

ちょうど立春の頃でした。山崎には淀川をはさんで男山の岡が見え、美しい風景が心をとらえたのかもしれません。

紀貫之は次のように書いています。

「雨いさゝか降りてやみぬ。かくてさしのぼるに東のかたに山のよこをれるを見て人に問へば『八幡の宮』といふ。これを聞きてよろこびて人々をがみ奉る。山崎の橋見ゆ。嬉しきこと限りなし。こゝに相應寺のほとりに、しばし船をとゞめてとかく定むる事あり。この寺の岸のほとりに柳多くあり。ある人この柳のかげの川の底にうつれるを見てよめる歌、

『さゞれ浪よする綾をば青柳のかげのいとして織るかとぞ見る』」

  

この山崎には離宮八幡宮というお宮があります。

もともとの始まりは行教(ぎょうきょう)というお坊さんが暗闇に光が立ったのが見え、そのあたりを掘ると、石清水が湧き出してきたので、そこを石清水八幡宮にしたといいます。

その後、八幡(やわた、京都府八幡市)に石清水八幡宮が移りましたが、今でも離宮八幡宮の境内には本殿のとなりに石清水の井戸があります。

 

 同じ境内のなかに「本邦製油発祥地」という碑がたっています。

 精油はそれまでもおこなわれていたはずですが、「長木」という油を搾り取る道具を発明し、それによって大量に油がとれたことにより、文明の度合いが少し進んだようです。

 長木では荏胡麻(えごま)の実を絞って油を作りますが、できあがった油は灯火として使われ、月明かり、星明りのない晩など部屋のなかをあたたかく照らしたのでしょう。

 長木という画期的な発明は離宮八幡宮のみならず山崎にとって大きな恩恵を与えました。

 製造販売の独占権を手に入れたのです。

山崎以外では油を作ってはいけないし、販売してもいけないということです。

他の地方で油を製造販売するときには、離宮八幡宮に許可を得て上納しなければなりません。

販売のために諸国を売り歩きますが、将軍の花押(サイン)がはいった通行手形があり、自由に往来することができます。この手形には油以外の売買の許可も含まれていました。

原料の荏胡麻は遠く伊予(愛媛県)まで仕入に行っています。販売は肥後(熊本)まで行っていました。

これらの人の交流は離宮八幡宮にとって物流と情報という貴重な財産をもたらしました。

油座という同業組合を作り、自治がおこなわれたのはこのような背景があったのでしょう。

 

この山崎の繁栄が衰退したのは織田信長が楽市楽座をはじめたからでした。特権が廃止されたのです。

遠里小野の菜種油が広がり始めたころでした。

 

歴史から忘れられた、山崎の油座でしたが、灯火が菜種油から石油に移り変わり、食用油が庶民に広がり始めたころから、油祖として再び注目をあびることになります。

全国の油脂業者が油の神様として離宮八幡宮を崇めるようになりました。