昔、海だったところが地殻変動で海から切り離され、海水の湖になり、やがて干上がり結晶化した塩は、その上に堆積した土の中で硬く固まると岩塩になります。

 岩塩は塩の結晶のかたまりなので、持ち運びができます。

 つまり、塩を必要としているところまで動物の背に乗せて運び、金などと交換して持ち帰ることができるわけです。

 

 人間に塩は欠かせません。塩が欠乏すると新陳代謝が悪くなり吹き出物がでたり、ふらつきや目が悪くなったりします。縄文以前は動物の血で塩分を補給していたとも聞きますが非常に微量だったのでしょう。

 それと、塩は食物の保存には欠かせません。

 乾燥、燻製、発酵とならんで、塩蔵はもっとも有名な保存方法です。

常に飢えを体験してきた昔の人々にとっては、保存食を常備することは文字どおり死活問題でした。

 

 人間には欠かせない塩ですが、その反面、習慣性と依存性があります。

 体が必要とする塩分は一日に1.5gから激しく体を動かしたときで5gぐらいだといわれています。

 今の日本では塩分の平均摂取量は12gをこえています。

 本来必要量を摂取していれば体は充足しているはずなのですが、脳が必要量をこえて欲するわけです。

 

 岩塩が貿易の一時代を担ったのは必然性があったのです。

 

 一方、日本には岩塩がありません。全くないわけではありませんが、山で採れる塩は稀です。

 太古から海水を煮て塩を取り出していたのです。

 日本はまわりが海なので、塩を採取することは比較的簡単に思いがちです。

 しかし、海水には3%の塩分しかありません。多雨という日本の地域性もあります。せっかく塩分の濃い砂地ができあがっても雨で塩分が流れていくのです。

塩を取るには大変な労力が必要でした。

 

さて、海水から塩を取り出す方法ですが、その理屈は大昔から現代にいたるまで変わりません。

それは次のようなものです。

はじめに高い濃度の塩水(かん水といいます)を作ります。そのかん水を煮て、水分をとばし塩の結晶を取り出す(せんごうといいます)という工程です。

 

伝統的な塩つくりの方法ですが、海辺の一角を干拓して塩田を作ります。

そこに厚さ1センチほど砂を撒きます。

この「まき砂」の作業は熟練した技術が必要で、経験に長じたものがあたり、賃金も高かったようです。

その上に桶で海水を散布します。

この海水の散布は、塩分濃度を高める目的と、砂浜の下の湿った海水を吸い上げる目的があります。

こうやって、砂に塩の結晶を付着させます。

 

何度か海水を散布し、「まき砂」をかき混ぜて水分がとんだら、底にスノコやスダレをひいた大きな木箱(ぬいといいます)に「まき砂」を入れます。海水をかけていきます。

海水をかけていくと、ぬいの底から塩分濃度の高いかん水が滴り落ちてきます。

たまったかん水を釜で煮ていくと、どろどろの塩ができあがります。

この水分は豆腐などを固めるときにつかう「にがり」で「にがり」を取り除くと塩の完成です。

昭和の半ばまではこういった光景が見られていました。

 

その後、国の方針で電極を使ってかん水を取り出すイオン交換膜法に一斉転換され、今私たちが調理に使っている塩のほとんどがこの塩になりました。

 

 

日露戦争(1904年~1905)のとき、日本は、自国の信用を元手に外国から借金をして戦争をはじめました。

当時は、はたらく人の6割が農業や林業、漁業についていました。工業化をはじめたものの、まだまだ力が弱く、主流にはなっていません。

国力という意味でも小さな国でした。

その日本が国内でもお金を集めるためにさまざまな工夫をしました。そのなかのひとつが塩の専売制です。

政府が塩の生産を管理して流通させ、その利益を国の財布に入れるのです。

 

それまでは瀬戸内海が塩の生産の多くをにたっていましたが、各地方ではその土地のやり方で塩を作っていました。

その全国各地の塩田を整理して、生産量をあげ、全国で同質の塩を手軽な価格で販売できるようにしました。

この専売制にはもうひとつ理由があったようです。

それまで外国の良質な塩が大量に輸入され、国内の塩業を圧迫していました。

それを防ぐために政府が国内の塩を保護したとのことです。

 

いまの塩は98%が塩分ですが、当時の塩分は75%程度だったそうです。のこりは「にがり」が混じっていたといいます。

この品質を上げるために昭和に入ってから電極をつかって塩分を抽出する方法に統一され、一挙に品質があがりました。

このように時代を追うごとに品質が上がってきた塩ですが、山間部の人たちにとっては塩分の低い塩を「悪い」というとらえかたはしてなかったようです。

 

全国に塩の道があります。

塩の道というのは、塩の流通に使われた道のことですが、塩を通してさまざまな物資が流通した道でもありました。

ある山村からは灰を俵に詰めて、塩と交換したといいます。灰は麻を白くするために使われました。薪と交換したということもあったようです。

その逆に塩の生産者が方々に売り歩いたということもあったようです。醤油、味噌、食品の保存など塩は欠かすことができません。

塩の道は生活の糧の道でもあったといえます。

 

山間部のひとたちは、その交換のときに質の悪い塩を買い求めたとのことです。悪い塩には「にがり」が多く含まれているからです。

塩は通常、俵に詰められていました。この塩を俵ごとすのこや桶の上にのせると下に「にがり」がたまっていきます。

その「にがり」で豆腐を作っていきました。

山村の人にとって質の悪い塩は、とても役に立つ塩だったといえます。

 

現在、日本では生産された塩のうち15%しか食用に使われていません。あとの85%は工業用です。

 

「良質」という考えは工業においての基準だったようです。