ララ物資

 ララ物資

 

 終戦直後の日本

 1945年、日本の敗戦時の米の作況指数(平年の収穫量を100とした数)は67でした。

 戦争にくわえ冷害と水害、それに肥料不足などが原因とされ、明治以来もっとも収穫量の少ない年でした。

 その上、600万人にものぼるアジア各地に散在していた民間人、兵隊や軍属が続々と帰国してきます。

 当時の日本の人口は7200万人ほどでしたから、8パーセント以上の人口が増えることになります。

 前代未聞の不作にくわえ、食料をもたない人がどっと押し寄せてきたのです。

 そのうえ、戦前の鉱工業、電力生産力より30%落ち込み、働くこともままならない状況でした。

 それでも、みんな食べていかなければなりません。

 江戸時代が終わってまもない明治7年に太政官から制定された「恤救規則」(じっきゅうきそく)という窮民救済法では、働けない男性にたいして、一日3合のコメが支給されることになっています。

 1945年の政府の配給米は大人一人一日二合1勺でした。

 簡単に比較はできないのでしょうが、国力は底をついていました。

 

 移民

 明治期からハワイ、ブラジルをはじめ多くの日本人が海外に渡りました。

 1868年(明治元年)グアム、ハワイに始めての移民が渡航しました。この渡航は、旧幕府から承認されていたものの、維新後、明治政府は承認せず、153人の移民は無許可での渡航になりました。

 環境、風土、気候の違う、外国での暮らしはとてもきびしく、この渡航はトラブルが続いたようです。

 日本国内での、移民への積極的な意見は少なく、民間の会社が主になって渡航を促進していきますが、この民間会社のなかには、悪質な業者もまざっていました。現地についても土地がない、案内する人がいないなど、とんでもない事例がありました。

 移民になるということは、大きな賭けともいえ、一世一代の大仕事でした。

 それでも、20世紀はじめまで移民は増えつづけました。

 なかでも19世紀後半からアメリカのカリフォルニアに集団での移民がはじまり、20世紀初頭にはカリフォルニアとネバダは日系移民を制限する建議書を連邦政府にだすほどになりました。

 日本とアメリカが戦争を始めたころ、アメリカには12万7千人の日系人がいたといわれます。

 開戦の翌年、アメリカ大統領ルーズベルトは1942年2月に敵性市民を隔離する大統領令を発令しました。

 その結果、11ヶ所に設けられた戦時転在所にほとんどの日系人が収容されました。

 

 日本難民救済会趣意書 註1

 敗戦の翌年のはじめ、サンフランシスコで起草された「日本難民救済会趣意書」には次のように書かれています。

「(略)被災者は、厳冬を前に控え食べるに食物なく、着るに衣類なく、風雨をしのぐ家屋すら充たされていない状態にあり(略)餓死線上に彷徨する者毎日数知れないということであります。

 私たちはこれを聞いてじっとしていられない衝動にかられます。比較的豊かな立場におかれている私たちは、自らを省みてたとえ一食を分かち、一日の小遣いを割いても、これら同胞難民に対して何とか援助してあげなければならないという良心的な義務を感じます」

 なぜこれほどに思い募るのかといえば、戦時中、日系人はアメリカ政府から敵性国民として収容所(転在所)に強制収用されていたとき、物資不足の日本から「醤油、味噌、薬品、書籍(略)を贈られたときの感激を思い起こす」からだといいます。

「転在所(収容所)内同胞に付して与えられたる温情を思い起こすときに、私たちは欣然として自らの持てるものを、日本難民に分かち与える気持ちにならざるを得ない」という、やむにやまれぬ心情から発するものでした。

 この日系人たちのはたらきかけや、日本在住経験あるアメリカ人宗教家たちがアメリカ政府やGHQを動かし「アジア救援公認団体」からの物資を日本へ届けるようになりました。

 

 ララ(LARA)とは「アジア救援公認団体」の英語の頭文字をとった呼び名で、アメリカの宗教団体、労働団体が加盟した団体です。諸国の救援物資を日本に届ける窓口になりました。

 このララを通して送られた物資の20%はアメリカ、カナダのみならず、ブラジル、アルゼンチンに住み移った日系人が自らの持てるものを集めたものといわれています。

 

 ララの駐日代表のバット博士はカナダ人の宗教家で1921年に来日し、東京で社会福祉事業に従事した人です。彼が日本に来たきっかけは新渡戸稲造の「武士道」に感化されたためといわれています。戦後はララの活動と供にマッカーサーの政治顧問として救援策を講じました。

 もう一人の駐日代表のローズ女史も戦前から日本で教育活動をしており、戦時中は日系人の強制収用に抗議した非常な親日家でした。戦後は現天皇が皇太子だったころの家庭教師を務めています。

この二人だけでなく、日本に縁のある民間人が尽力をつくして、ララは成り立っていました。

 

 ララの物資配分にたいする三大モットーは「公平」「迅速」「効果的」といわれています。危急の状況をよく把握した簡潔な方針でした。

 

 受ける側の日本では非常に細かく計画を立てました。

 日本に物資が届いてから受け取る各人にいたるまでの輸送、配分、責任所在があきらかにされており、物資が闇に流れることのない厳格な道筋を作り上げています。

 また、戦争被害に応じた四つの配分グループにわけ、特に被害の多かったAグループには大都市圏それに広島、長崎をあてました。

 そのなかでも、幼児、子ども、結核患者、生活困窮者に優先的に配布されました。

 さらに、配布に関しては「単なる割当抽せんによることなく民生委員の意見も徴し、幼児には幼児用服、女児には女児用服の衣料を支給するよう、なるべく実際に適合する衣料を支給すること」との但し書きを添え、「公平」「効果的」な運用をこころがけました。

 

 ララ物資は、戦後の混乱を極めた時期に、離れた国の人どうしの意思が物資を介在して、交流した一例といえます。

 

 

註1 日本難民救済会趣意書

 私たち沿岸在留同胞は、帰還以来いろいろ不自由と欠乏に遭遇しておりますが、現在はとにかく衣食に窮することなく、生活の再建に励んでいる境遇にあります。しかるに、最近ひんぱんと伝えられます日本爆撃地帯の被災者は、厳冬を前に控え、食べるに食物なく、着るに衣類なく、雨風をしのぐ家屋すら充たされていない状態にあり、餓死線上に彷徨する者、毎日数知れないということであります。

 私たちは、これをきいてじっとしていられない衝動にかられます。比較的豊かな立場に置かれている私たちは、自ら省みて、たとえ一食を分かち、一日の小遣いを割いても、これら同胞難民に対して、なんとか援助してあげなけれはならないという良心的な義務を感じます。

 同時に、先年私たちが転住所において、故国同胞から慰問品として醤油、味噌、薬品、書籍、娯楽品などが贈られたときの感激を、思い起こすのであります。あの物資不足の日本から、衣食住の保障されている私たち転住所内同胞に付して与えられたる温情を思い起こす時に、私たちは欣然として自らの持てるものを、日本難民に分かち与える気持ちにならざるを得ないのであります。

 よって、サンフランシスコ湾東の有志は協議を重ね、さらに帰還者同胞大会を催し、ここに左の目的の下に、日本難民救済会を組識するにいたりました。

 本会は戦火の犠牲となり、衣食住に欠乏する日本難民救済のため寄附金を募集、または衣類を収集し、適当な方法において日本に送付するをもって目的とする。

 私たち在留民が、故国同胞に付し、いささかなりとも救援の誠を示すのは、正にこの時であると信じます。なにとぞこ賛同下され、でき得る範囲において、金品の御寄付を仰ぐ次第であります。

 

          ′千九百四十六年一月二十二日

             日本難民救済会

 

つのだ

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