脚気

脚気

 

 19世紀後半、日本では脚気という病気が生死を分ける深刻な病気であった。

 この病気にひとつの解決策を提示したのは、高木兼寛という医学者だった。

 高木はイギリスに留学し、そこで病気を治すには治療とともに、目の前の病者が回復に至る支えが必要だと痛感する。

 これは医師が病人と直接かかわり治療する臨床という考え方や、病人を背後からあるいは側面からささえる看護の重要さをさしている。

 そこには原因と結果が一直線で結ばれるような明快さはないが、実際に目の前で人が回復することに重きをおく現実的な温かみがある。

 高木は脚気がはやっていた当時、刑務所のなかでは不思議に脚気患者がおらず、そのことにヒントを得て、ある実験を始める。

 170人の脚気患者を出した海軍の訓練航路を同じ条件で食事内容だけ変更して再度航海するという実験である。

 この航海の結果、脚気患者は0人という結果を得ることになった。

 変えたのは白米から麦飯にしたというシンプルなものだった。

 このことをもって、海軍は麦飯を正式採用し、脚気は激減することとなるのである。

 

 しかし、当時の日本ではドイツ流の医学が主流だったこともあって、この高木のやり方ははなはだ評判が悪かった。

 科学的ではないというのである。

 ドイツ主義の人には、コッホというドイツの医学者が結核菌やコレラ菌を発見したという世界的な業績が念頭にあり、肉眼ではとらえられない「なにか」が人体に扶植することが原因であるという最新知識で病気を解釈しようとしていた。

 脚気は感染症であるという診断をくだしていたのである。その療法は風通しを良くするなどであった。

 原因となる菌が発見もされておらず、経験によって麦飯に変えるというのは、なんという雑な考え方であろうというのがドイツ主義のひとたちのいいぶんである。

 いまになってみれば、このドイツ主義の人たちを滑稽なと笑うことはできるのかもしれない。しかし当時の人は真剣であったし、私たちが経験するある種のものごとには、こういった真剣な滑稽さというものが含まれている。

 

 ただ、そうもいってられないのが、結果においての悲惨さであった。いくどか道を変えるタイミングがあったにもかかわらず、「主義」に固執して多くの人命が失われた。

 海軍は高木の方法を取り入れたが、陸軍は高木の方法をしりぞけた。

 日清戦争のとき、海軍では一人の脚気患者をださなかったが、陸軍は戦死者の9倍(4064人)もの人が脚気で亡くなったとされる。

 日清戦争より以前に陸軍でも麦飯を取り入れ脚気患者が激減していたのだが、ドイツから帰ってきた森鴎外は麦飯を批判し、結局、陸軍は白米に戻った。

 1904年にはじまった日露戦争の戦死者は46423人といわれている。旅順攻防では多くの命が捨て駒のように使われた。

この戦争での病死者は37200人にのぼる。全死者の44%が戦闘ではなく病気で亡くなっているのである。

その病死者のなかで、脚気による死者は27800人におよんだ。病死者の75%を占めている。海軍の脚気による死者は105人であった。

高木が航海をもとに兵食を麦飯に変えてから約20年間、近代官僚国家の弊害か封建時代の藩閥制の遺物なのかわからないが、海軍医局をのぞき医学会が白米を受け入れることはなかった。

白米と脚気の関係が明確ではなく理が通らないということが批判の根元だったのだが、当時ビタミンはまだ発見されておらず根本的な理解に至ることは不可能であった。

 

ただ、科学と臨床のあいだにはこのような齟齬が運命的に携わっているようにおもえる。

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